第一部 観念、その起源、構成、結合、抽象などについて

第一節 観念の起源について

人間の心に現れる全ての知覚は二つの別個な種類に分けられ、本書ではそれらを「印象」と「観念」と名付ける。二つの違いは、それぞれが心に湧き出て思考や意識へ入り込むときの勢いと生気の程度にある。極めて勢いよく烈しく入ってくる知覚を、印象と名付ける。この印象という名称の下に、初めて心に出現した感覚・情緒・情感の全てを包括できる。また観念という名称によって、思考や推論におけるこれら(感覚・情緒・情感)の淡い映像を意味する。例えば、本論考によってかき立てられた全ての知覚のようなものである。ただし、単に見ること触ることから生じたものを除いて。あと直接の快不快があればそれも除く。印象と観念のこのような区別を説明するために多言を費やす必要は多くないだろう。誰でも各自自身で、感じると考えるとの相違を直ちに理解するだろう。普通の程度であれば、この二つは容易に区別できる。ただし特殊な場合には、印象と観念とが極めて近づき合うこともあり得なくはない。例えば、睡眠・高熱・狂気のとき、あるいは精神が何らかの激烈な情感の内にあるときには観念が印象に近づくこともある。また一方では、印象が観念と区別できないほど淡く微弱なことも時折は起る。しかし、これら少数の近い類似の例があるにもかかわらず、一般的には印象と観念とは大いに異なる。従って、誰でもためらいなく両者を別個に位置づけ、違いを明示する固有の名称をそれぞれに割り当てる。

知覚にはもう一つの区分があり、この区分は観察するのに便利で、かつ、印象と観念の両方に当てはまる。その区分とは即ち「単純」と「複雑」である。単純知覚=「単純印象」と「単純観念」は、区別または分離の余地を少しも与えないようなものである。複雑知覚(「複雑印象」と「複雑観念」)はその反対で、部分に区別できるのである。(リンゴを例にすると、)個々の色・味・香りは全てリンゴのうちに合一された性質であるけれども、それぞれは同じものではないし、少なくとも互いに区別できることが容易に認められる。(デイヴィッド・ヒューム 井上基志訳 人間本性論